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田村日記

『野田版 桜の森の満開の下』

19/04/12 UP

平成29年8月に歌舞伎座で初演された新作歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』。
私はこれにはまってしまいまして、劇場で3回見ました。
野田秀樹が坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を下敷きに歌舞伎用に書いたものですが、ご存知のように一般の演劇では『贋作・桜の森の満開の下』として上演を重ねています。

『野田版 桜の森の満開の下』は、2019年4月に「シネマ歌舞伎」という映画館で見られる映像作品となりました。生の舞台の印象をそのままとどめておきたい、という気持ちもあってちょっと迷ったのですが、すい寄せられるようにして見に行きました。役者の顔がスクリーンに大写しになったりして新鮮でした。見てよかったです。

この作品は、夜長姫を女方で演じている中村七之助丈が圧倒的な存在感をみせています。恐ろしいミューズ。
男が女の役を演じる「女方(おんながた)」という手法は、単に男の身体が女のモノマネをするのではありません。女性の身体では表現しきれないものが「女方」にはぎっしり詰まっている。
女である私は、女方の演技を見ることで、自分では発散しきれないなにか(これがはっきりとつかめないのですが)を昇華させてもらえるように感じます。女方の「強靱さ」「狂気」に憧れがあるのかもしれません。そして、この『桜の森の』では、ふだんは自分自身の手で押さえつけている狂気、無意識みたいなものが慰められたような…。そんな風にも感じました。お芝居のチカラ。
ラストの「殺し場」は、圧巻で美しく、夜長姫の最後のセリフは強く印象に残りました。
「好きなものはね、呪うか殺す、でなけりゃ耳男、争うかしなくてはならないの」

以下の野田秀樹さんのインタビューでも、女方について語られているところがあります。
「夜長姫が女方であることが、大きな肝ですね。歌舞伎における恋愛は男女の生々しさがないことで、ある意味、逆になまめかしかったりもするわけですが、今回は生々しさにフィルターがかかり、構造がはっきりしたんです。坂口安吾の原作を読むと、夜長姫はサディストです。七之助がエナコの首に縄をかけて引っ張ってくるところなんて本当にひどい(笑)。それは七之助という俳優の特性によるところも大きい。」

この作品は、ついつい役者の演技に圧倒されて脳が飽和状態になってしまいますが、戯曲に盛り込まれた思惑みたいなものも、複雑にちりばめられていますよね。国家とは。国家と芸術家の関係のあり方とは。人のしあわせとは。などなど。まだそれが、うまく自分のなかで解きほぐせていません。だから、改めて台本を読み見直しています。うまく聞き取れない台詞もあって、発見多し。でも、まだわからないことも多いです。
わからないことが残るお芝居って、いいですよね。また、歳をとってから見たら、違う発見があることでしょう。

そういえば、実際の舞台を見る前に台本を読んだときは、チンプンカンプンでした。今、こうして読んでいるのと、すごいギャップがあるんですよ。これが、なんだかおもしろいです。歌舞伎のストーリーもかなり飛躍したものがありますが、それとは別次元のわからなさ。
初見であまりにわからなくて、それで原作の2つを読んで、少し分かって、舞台をみて、おおお!と。そこから、また台本に戻ってくると、台本を読むだけで自分の脳内に舞台もよみがえっくる。
この台本。一般の人は、なかなか見る機会がないと思いますが、東銀座にある大谷図書館という演劇専門の図書館で見ることができますよ。ただしちょっとハードルの高い図書館なんです。閉架式で館内閲覧のみ。私ははじめのころは、ふつうの和気藹々とした図書館とあまりに違うので、緊張してしまい、引き返したこともありました。でも、司書の人達はとっても親切で、歌舞伎などについてもすごく詳しいので、まずは相談してみてください。今の私にとっては、頼りがいのある大事な場所です。

さて、裏方の世界の側から見ると、この作品は準備がなかなか大変だったようです。ふだんの古典作品ならば、裏方の仕事にも型(定式)があるので手慣れているけれど「新しく作る」演目は、みなさん苦労が多く、いろいろ聞かされました(笑)。
でも、また、生の舞台で見たいなぁ。

シネマ歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』特設サイト
(予告動画あり)
https://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/sakuranomori/

【歌舞伎美人ニュース】
シネマ歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』を野田秀樹が語る
https://www.kabuki-bito.jp/news/5371

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